光明元年

雑感

飛躍は悪ではない

連休中に小島信夫という作家の「一つのセンテンスと次のセンテンス」という短い文章を読み、これが面白かった。

ちなみに小島信夫のことは保坂和志の「小説の自由」のなかでたびたび名前を挙げられているというほかはまったく何も知らないし、小島信夫の小説を読んだこともない。

書き出しはこう。「一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。いいたいことが大したことでなければ、十分にいわれたとしたとしても、つまらないのだから、けっきょくいいたいことがほんとうにあり、そのいいたいことが、いうに価することであるかどうかということが問題となってくる。」良くないですか?

ここから自分は文章を書くときにどういうことを意識しているか、というか、書くときに大体どのような心の流れを辿っているか、ということをつらつらと書いている。

小島信夫の文章はてにをはが素直じゃないし、論理も飛躍している。これといった結論があるわけでもない。「…といっても私は今述べたようなことをいつも痛切に感じながら書いているわけではない。たった今は厳密にそう感じているかどうかわからない。ところでセンテンスの結び方というのは選択肢が限られていて不自由なものだ。このことについてはもっと言いたいことがあるが、しかしここでは言うまい…」といった具合に話がどんどん横すべりしていく。読みづらい。良文か悪文かでいえば悪文の部類で、けどある種の切実さがある。そのことはとてもよく伝わる。これがつまり「言いたいことが十分に言えている」ということなんだろう。

私は仕事で人が書いた文章の校正をしたり、ほかの校正者が入れた指摘を目にすることがある。てにをははもちろん、論理の飛躍、前後の矛盾、この一文は余計ではないか、前提を共有していない読者のためにもっと詳細な説明を入れてください等々、相当に口を出す。たぶん、小島信夫のような文章を仕事で読んだらめちゃくちゃ指摘を入れてしまうと思う。大きなお世話もいいところだ。この文はこの書き方によって言いたいことが十分に言えているのだから。となると私たちは一体日頃何を指摘しているんだろう?もちろんそれで文章がより良くなると信じているから提案するわけだけど、隙間なく意味で囲い込んでかえって不自由にしてしまっているようにも思える。

論理的な文章においては飛躍は欠陥とみなされる。でも飛躍それ自体が持つ意味というものがあり、詩の言葉なんかでは飛躍の運動を利用していることも多い。小島信夫も飛躍について言及している。文章を書く時にはむしろ飛躍を心がけていて、「書いていて、そうでないと文章が死んでしまったように思え、書く喜びが感じられない」とまで言っている。かけ離れた二つの文から、ほかに言い換えることが容易にできない意味が浮かび上がってくる、そういうのが書く喜びだと。

ちなみに同じ本に収録されている「日本文学とユーモア」という文章も良い。大げさに膝を打つとか感銘を受けるとかいうことはないが、何とはなしにじんわりと「これは良いぞ」と思うような文章。このなかで小島信夫はユーモアを「物事を写実的に描くとき、それでは何か人生を裏切っているような気持ちになった作者がそこに一枚かぶせる衣」だと言っている。それは人間を墓場の方から逆に見る態度、つまり「私たちは生きているけれどもやがて死ぬし、やがて死ぬけれども、少くとも現在は生きているという態度」のことだと。こういう文章を読むとドキドキする。「これは良いぞ」と思うわけです。結論は特にありません。