光明元年

雑感

20230517

昨日は坂本慎太郎のライブフィルムを上映する会に行った。東京のモグリだからリキッドルームに初めて行った。広いんですね。恵比寿の町は意外と生ゴミ臭かった。

上映見ながら考えてたことメモ(全然ライブに関係ないこと考えちゃってた)

・人と相対するとき私はその人に何ができるだろう考えるのがコミュニケーションレベル1だったとして、「私はあなたに何ができますか」と聞かずにいかにそれをやるかがお洒落さなんじゃないか

・どの曲かわからないけど「不安で気持ちいい」という歌詞があって、あんまり経験したことないけどそれは好ましい状態かもなと思った。そしてそういう矛盾した状態は当然あるよなと思った。安心で息が詰まるとか。あんまり巷で言及されない感情の存在、「そういう風にも暮らせるんだぞ」という感じをしっかり掴んでおきたい。しかしセトリと照らし合わせてみてもそんな歌詞は見つからないので空耳かもしれない。

・暮らしって言葉からは日々のルーティンやハウスキーピング的なものを連想しがちで、そうするとなんとなく狭い領域のように感じられるけど、暮らすって生まれて死ぬまでの明けて暮れる一日一日を乗り越えていく(暮らす、暮れさす)ことなわけで、そう考えると無限の可能性感じる。暮らすの主語が人で暮れるの主語が地球なのやべー

坂本慎太郎は社会性があるなあ

・社会性がない奴はそもそも「まともがわからない Ahh-wooh」なんて言わないよな

・「君には時間がある」と「悲しい用事」と「スター」が好きだ

声出しが解禁された高揚感もあるのか会場は結構盛り上がっていて、1曲終わるごとに拍手や歓声が上がった。しかし上映されているのは2022年に熊本で行われたライブで、昨日のリキッドルームとは時間・空間ともに離れているので一体何に対して手を叩いてるのかよくわからない感じがあり、前半はみんな探り探り手を叩いていた。この映像を編集した大根仁は会場にいたから、大根仁に対する拍手という面もあったかもしれない。

これはアイドルのライブビューイングで誰に向かってペンライト振ってるのか問題と似ている。絶対に推しの目に入ることのない光をオタクはなぜ灯すのか。

初めてライビュに行ったときに同行した人の「(途中でペンラの電池が切れても)心で灯すからいいや」という言葉が私のペンライト観の礎になっている。ライビュにおけるペンライトはつまり線香みたいなもので、昨日の拍手も各々が焚いた線香のようなものなんでしょう。最後はもう拍手喝采だった。