光明元年

雑感

0929

本になって世の中に出る前のやすりがけされていない文章を読む仕事をしている。そういう仕事をしていると、よく見ると理路が崩壊した文章が活字を纏って澄まして並んでいるのを本当によく見る。口先で「丁寧に説明したいと考えている」などとそれらしいことを言えば実態が伴っていなくても何か責任の一端を果たしたかのように錯覚させられる(ほんとか?)のと同根なんだろう。フォントの功罪。

最近また自分の感情とは無関係に「死にたい」という言葉が頭に浮かぶことが多くなってきた。自分の状態に対する解像度が低いと後悔も不安もむなしさも怒りもすべて「死にたい」の4文字に集約して楽してしまう。別に死にたくもないのに。思春期に安易に「死にたい」を使いすぎて「死にたい」に至るシナプスが強化されちゃっているためと思われる。死にたさの語彙が貧困だと思い込みで死んでしまう。人間より言葉のほうが強い時がある。