光明元年

雑感

20230429

昨日、会社帰りに東京駅の丸善で便箋を買った。手紙なんてもう15年くらい書いていないが、4月で仕事を辞める母になんらかの労いを表したいと思っていて、それで手紙でも書こうかと思い立った。

便箋を買ったら、母だけでなくいろんな人に宛てて手紙を書きたくなった。手紙を書くというのはLINEやメールを送るのとは全然違う行為だ。速さだけの問題ではない。LINEやメールの文章を書くときは基本的にその相手に読まれることしか考えない。手紙を書くときは、半分は相手に向かってボールを投げているが、もう半分は自分に向かって投げている。紙に文字を書いたり消したり止まったりしながら、その間に自分がいま相手に伝えたいこととはなんなのかを考えている。書くことによってはじめて自分はこんなことを考えていたのかとわかることもある。

ただ、文章を書くという行為はそれ自体の性質としてなんらかの帰結に辿り着こうとしてしまいがちなので、注意が必要だとも思う。それまで漠然としていた感想未満の物思いも、文字になった途端に事実然として力を持ちはじめる。そうなると「それらしい着地」に自分自身が騙されていないかどうかが気になってくる。もっとも、どんな帰結であれ自分が辿り着いたそのひとつの帰結を選ぶということが生きるということなんじゃないの?という気もする。

今日はいろんなところを移動しながら手紙を書いた。段落と段落の間で新高円寺から阿佐ヶ谷まで歩き、次の段落と段落の間で友人に会って、彼のお父さんが企画したという阿佐ヶ谷駅前でのフラッシュモブ?(弦楽器隊2、30人で第九の歓喜の歌を1曲演奏して解散、というもの)を見てお茶して別れた。