光明元年

雑感

同じ言葉の羅列に句読点を打ち、散文ということにすれば狂人で、改行して詩ということにすれば芸術らしい。譫言を57577の定型に収めればそれは短歌だ。短歌というのは定型に収まった譫言のことだから。

去年の11月頃からふと短歌を作り始めて、2月頃までに100首ほど作った。なんでいまさら短歌なのか自分でもよくわからない。11月にコロナにかかって高熱にうなされながら雪舟えまの「地球の恋人たちの朝食」を読んだからかもしれない。

そうして作った短歌の一つの上句に「生きのびるではなく生きたい」というものがあった。"生きのびる"ことや"死なない"ことを志向する言葉は最近の流行りだ。生きのびるための事務、生きのびるためのデザイン、生きのびるための建築、生きのびるブックス、一見、それらはとっても感じ良く見える。共感する。読みたい。そういうのを求めてた。でも何かを覆い隠しているような気がする。砂糖壺の中にひとさじの嘘が混ざっていて、毒じゃないからといってそれを見過ごして一度体内に入れてしまったら、もう嘘を嘘だとわからなくなってしまうような。

その短歌を作った時は本心からそう思っていた。「私は生きのびたいわけじゃなく今生きたい」と。でもそれは実のところ「生きのびる」でも「生きる」でもなく死へ向かう道だと、じわじわわかってきた。

情けなく、理想からはほど遠く、どちらの極にも振れなくても生きている自分を許すことが「生きのびる」ことなのかもしれない。理想を妥協させまいとするなら死ぬしかないみたいなことになる。それをどう妥協させるのか、あるいはどの部分を妥協させ、どの部分をどのように妥協させないのか、それがその人の人生になり文学を作る。それがいつか成熟にもつながる。そう信じている。いや、信じていない。信じられないから祈っている。そう信じられますようにと。大げさだよね〜。でもしょうがない。そういう性分ですから。運命ですよ。

今日読んだ本の一節。

河合 いまは、それが流行ってるんです。また、変わると思いますよ。それから、時代精神に合う人生を送る巡り合わせの人がいるんですよ。そういう人は、調子がいいんですね。それを、調子がいいから「軽薄だ」というのは、おかしい。その人は、時代精神に合うパターンの人なんだから、どうぞ、と思ってたらいいんじゃないですか。と、ぼく、この頃思うんですけどね。ぼくらはだいたい時代精神に合わない人ばかりと会ってるわけじゃないですか。だから以前はそういう人たちが頑張って生きてるのを見てたら、時代精神に合ってスイスイやっている人を見ると腹が立っていたんです。あいつは「表面的だ」と。でも、よく考えると、表面的ではないんですよ。それは、その人に合っているだけのことで。

吉本 たまたま時代にすんなりと一致しちゃって。

河合 以前はなんとなく腹が立ってましたが、この頃はいいと思うようになりました。いま時代に合っている人たちも、戦国時代だったらむちゃくちゃになっていたかもしれんから。これは、しょうがない。運命ですよ。

河合隼雄吉本ばなな『なるほどの対話』新潮文庫、2005年、p.112)

ちなみに、「生きのびる」と「生きる」問題は穂村弘がずっと前に「社会の言葉と詩の言葉」という文脈で話題にしていたことをあとから知った。ほむほむー!