光明元年

雑感

推しについての覚書

昨今の「推し」ブームに対して、「ゆけっピカチュウ!」に感じるのに近いタイプの嫌さを時々感じていた。「自分の好きなもの」を自分のカードとして使うような感覚。

「推ししか勝たん」「私の推しが今日も尊い」と言うとき、そこで言う「推す」という行為には「自分の主体を手放して他者(推し)に委ねる」ようなニュアンスが微妙に含まれているように感じる。自分よりも強いもの、魅力的なもの、世間から評価されるものに主体を譲り渡して、「自分はどのような人間か」ということを、自分ではなく「自分が好きなもの」に語らせるような。「推し」を客体化するのと同時に自分自身のことも「観衆」として客体化しているような。

アイドルを好きになって、自分に「推し」ができてからずっとそんなことを考えていたけど、90年代に「オタク」を論じた中島梓という人が既にそれに近いことを言っていたようだったのでメモがわりに引用しておく。「おたく」でも「お宅」でも「オタク」でもなく「おタク」という表記が新鮮。

「おタクという呼びかけによって、彼等は自分の陣地を守るんだぞ、という態度を明らかにした。おタク、つまりあんたの家、に呼びかける事は、自分の家からの呼びかけである。彼等はいつも大量の宝物を紙袋につめて、バック・レディーさながらに自分とともに持運んでいるが、…それらの紙袋とそのなかみは、彼らの自我の殻そのものなのである」

中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年。羽渕一代「「親密性」の意味転換:「共依存」概念の批判的検討」から孫引き)

目の前の「私」が「あなた」に呼びかけるのではなく、関係構築の前提として必要なお互いのホームに溜め込んでいる宝物(自分の好きなもの)込みで「お宅」と呼びかける。最近のオタクがよく使う一人称が「オタク」であることにも通じていそう。

 

でも、

・オタクがプロフィール欄に「◯◯ちゃん推し」と書くのは主体の放棄とかより何より、◯◯ちゃんへのラブレター(私はあなたが好きです。あなたのことを好きな人がここにいます。という)であること、同じ好きを持つ仲間とつながりたいこと、が先にある(たぶん)

・誰もが自分が何者であるかを自分の口で語らなければいけないわけじゃない

・好きなアイドルを見ているとき、そのパフォーマンスに感動しているとき、普段の生活のなかでは向き合わざるをえない「私」が後景に退いて、目の前の対象のことを虚心にすばらしいなと感じたり、自分が「すばらしい」と感じていることに感動したりする経験は得がたい

と確かに感じることも置き去りにしたくないと思う。