光明元年

雑感

穏やかじゃない場所

f:id:yoruno-gaiki:20230321165918j:image

日曜日の日記

冷蔵庫の中ではたくさんのものが傷んでいる。6個入りの卵のパックに表示されている賞味期限は3月10日。今日は19日。残っていた2個を手に取り、スクランブルエッグにすることにする。牛乳も入れようと思ったが、昨日、コーヒーに牛乳を入れた時にいやな匂いがしていて、コーヒーと溶け合わずにもろもろと分離していたのを思い出し、まだパックに半分ほど残っている牛乳を流しに捨てる。悪くなった牛乳はなぜか冷蔵庫の野菜室のような青い匂いがする。ついでに流しに残っていた食器を洗いながら、母もいま実家の台所で洗い物をしているだろうか、と思う。昨日、わたしが帰る前に使った食器を片付けようとするといいからいいから、あとでやるからと気を遣った。

汁用のお椀に卵2個を割り入れ、菜箸でかき混ぜる。味付けに顆粒のコンソメを直に振り入れると思ったより勢いよく出てしまい、牛乳で薄めたかったが牛乳はない。仕方なく蛇口の下にお椀を差し入れて水道水で薄める。フライパンを火にかけながらコーヒーを入れる。昨日粉を切らしたので近所のミニスーパーで買ったインスタントの一番安いのだ。野焼きのような香りが好みでなく、えぐみがあるので牛乳でごまかしたいが牛乳がない。今日は帰りに牛乳を買って帰らねばと思う。

鍋に残っていた3日前の野菜スープを温める。3日前の時点ですでに悪くなりかけていたもやしやブロッコリーを入れているので、これを食べることで体調に悪い影響を及ぼす可能性は高い。本当なら食べずに捨てるべきなんだろう。手つかずの食べ物を新聞紙やら折り込みチラシやらの上にあけて包んで捨てることが、それを食べてお腹を壊すことよりもはるかに億劫に思える。こうして私はいつも悪くなったものを食べている(牛乳は捨てたが)。食べ物を粗末にしてはいけないという一種の暗示にかかっているのかもしれない。

昨夜、福島第一原発電源喪失してから爆発するまでの再現ドラマを実家で母と一緒に見た。東海村原発の臨界事故で被曝した作業員のバラバラになった染色体の画像を見た。私の体の60%を占めているという水はどこからきた、どんな水だ。蛇口を捻ると出てくる水がどこからきているのかすら私は知らない。この体も、この食卓も、その上の卵も野菜も、この世に安全なものなんて一つもない。それは原発が爆発してもしなくても同じだ。アメリカの田舎の川べりに立っていた「It's not safe or suitable to swim.(泳ぐのに安全でも適切でもありません)」という看板を見て、江國香織は「私たちみんなの人生に立てておいてほしい看板ではないか」と書いている。いや「そう思った」と小説の中で登場人物に語らせている。

外に出ると昨日とは打って変わって春の陽気で、道端の植え込みでは新芽が一斉に芽吹き、伸び過ぎて歩道にはみ出した葉は近いうちに剪定されるんだろう。出がけに駅前の豆乳ドーナツの店の前を通り過ぎた。今日は帰りにドーナツを買って帰ろう。牛乳も買おう。花屋にも寄ろう。帰ったら食卓に花を飾ってお茶をしよう。夕飯も食べずに。そう思うと幸せな気持ちになった。おそらく多くの欺瞞と罪悪の上に成り立ち、無知によって支えられているのであろう自分の生活の喜びのことを思う。