光明元年

生きるためにやってます

20230524

引き続きリッカー状態で転職の面接の日程調整をしたり母親の退職祝いの会の調整をしたり(一人で来る?家族で来る?子供は?何時までに帰る?)花束の予約をしたりしている。結構なんでもできる。兄と疎遠になりすぎて他人よりも会う頻度が少ないけどたまにLINEでスタンプとか送られるとうれしいもんですね。

私はどうも自分の頭で物を考えてると思ってるけどそうではなく、頭の中の液体かなんかを揺らしてるだけなのかもしれない。音楽や物語や運動や飲食によって液体の密度や温度を変えて、それで自分でなんか考えてると思ってるだけなのかも。いやんなっちゃうね〜でも居直ったらダメだ。

霧の中をありえないような速さで行ったら危ない

思うことがありすぎてリッカーみたいに身体の内側と外側がひっくり返ってるのに、その状態で家族の集まりのために店予約したりしている。

日曜日、昼に起きて友達と文フリに行って、もう一人の友達と合流して、思いのほか早くやることがなくなったのでモノレールで羽田に行って、空港をうろついて、京急で品川に行って飲んだ。羽田に行くつもりは一ミリもなかったのについ行ってしまったので、周りの人が全員決まった目的地と搭乗時間を持っているなかで自分たちだけがなんの目的もリミットもなく、時間の中に放り出されて浮いてるような気がした。その時は妙な感じだな〜としか思わなかったけど今思えばあの感覚は結構気持ちよかった。

飛行機が見えるレストランの窓際の特等席に居座ってTPOをわきまえず死ぬのが怖いとかそういう話をした。めちゃめちゃ楽しかった。

死んだあと、脳だけ電極につながれてこの今送っている人生を夢で見続けるのがいいよなみたいな話になった。だとすると、この今が死んだあとに見る夢になるわけだ。それって良いかもね〜って思った。「ここは夢の中だから何をしてみたっていいんです」じゃん。

死んだあとに夢を見るかどうかはともかく、その時「これが私が死んだあとに見る夢か」と思いながら見た光景は案外死ぬ前くらいまでは忘れずにおぼえていられるんじゃないかという気がした。そういう断片を記憶に頼らずメモする。

しかし、夢の中を生きるように生きるのが良い生き方かと思いきや、それは捨て鉢とか思考の放棄と言うのかもしれなかった。明日死ぬかもしれない、でも今日のところはひとまず生きている。明日以降も生きていくつもりだ、今日のところは。という態度は尊敬すべきものだと思う。

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20230517

昨日は坂本慎太郎のライブフィルムを上映する会に行った。東京のモグリだからリキッドルームに初めて行った。広いんですね。恵比寿の町は意外と生ゴミ臭かった。

上映見ながら考えてたことメモ(全然ライブに関係ないこと考えちゃってた)

・人と相対するとき私はその人に何ができるだろう考えるのがコミュニケーションレベル1だったとして、「私はあなたに何ができますか」と聞かずにいかにそれをやるかがお洒落さなんじゃないか

・どの曲かわからないけど「不安で気持ちいい」という歌詞があって、あんまり経験したことないけどそれは好ましい状態かもなと思った。そしてそういう矛盾した状態は当然あるよなと思った。安心で息が詰まるとか。あんまり巷で言及されない感情の存在、「そういう風にも暮らせるんだぞ」という感じをしっかり掴んでおきたい。しかしセトリと照らし合わせてみてもそんな歌詞は見つからないので空耳かもしれない。

・暮らしって言葉からは日々のルーティンやハウスキーピング的なものを連想しがちで、そうするとなんとなく狭い領域のように感じられるけど、暮らすって生まれて死ぬまでの明けて暮れる一日一日を乗り越えていく(暮らす、暮れさす)ことなわけで、そう考えると無限の可能性感じる。暮らすの主語が人で暮れるの主語が地球なのやべー

坂本慎太郎は社会性があるなあ

・社会性がない奴はそもそも「まともがわからない Ahh-wooh」なんて言わないよな

・「君には時間がある」と「悲しい用事」と「スター」が好きだ

声出しが解禁された高揚感もあるのか会場は結構盛り上がっていて、1曲終わるごとに拍手や歓声が上がった。しかし上映されているのは2022年に熊本で行われたライブで、昨日のリキッドルームとは時間・空間ともに離れているので一体何に対して手を叩いてるのかよくわからない感じがあり、前半はみんな探り探り手を叩いていた。この映像を編集した大根仁は会場にいたから、大根仁に対する拍手という面もあったかもしれない。

これはアイドルのライブビューイングで誰に向かってペンライト振ってるのか問題と似ている。絶対に推しの目に入ることのない光をオタクはなぜ灯すのか。

初めてライビュに行ったときに同行した人の「(途中でペンラの電池が切れても)心で灯すからいいや」という言葉が私のペンライト観の礎になっている。ライビュにおけるペンライトはつまり線香みたいなもので、昨日の拍手も各々が焚いた線香のようなものなんでしょう。最後はもう拍手喝采だった。

飛躍は悪ではない

連休中に小島信夫という作家の「一つのセンテンスと次のセンテンス」という短い文章を読み、これが面白かった。

ちなみに小島信夫のことは保坂和志の「小説の自由」のなかでたびたび名前を挙げられているというほかはまったく何も知らないし、小島信夫の小説を読んだこともない。

書き出しはこう。「一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。いいたいことが大したことでなければ、十分にいわれたとしたとしても、つまらないのだから、けっきょくいいたいことがほんとうにあり、そのいいたいことが、いうに価することであるかどうかということが問題となってくる。」良くないですか?

ここから自分は文章を書くときにどういうことを意識しているか、というか、書くときに大体どのような心の流れを辿っているか、ということをつらつらと書いている。

小島信夫の文章はてにをはが素直じゃないし、論理も飛躍している。これといった結論があるわけでもない。「…といっても私は今述べたようなことをいつも痛切に感じながら書いているわけではない。たった今は厳密にそう感じているかどうかわからない。ところでセンテンスの結び方というのは選択肢が限られていて不自由なものだ。このことについてはもっと言いたいことがあるが、しかしここでは言うまい…」といった具合に話がどんどん横すべりしていく。読みづらい。良文か悪文かでいえば悪文の部類で、けどある種の切実さがある。そのことはとてもよく伝わる。これがつまり「言いたいことが十分に言えている」ということなんだろう。

私は仕事で人が書いた文章の校正をしたり、ほかの校正者が入れた指摘を目にすることがある。てにをははもちろん、論理の飛躍、前後の矛盾、この一文は余計ではないか、前提を共有していない読者のためにもっと詳細な説明を入れてください等々、相当に口を出す。たぶん、小島信夫のような文章を仕事で読んだらめちゃくちゃ指摘を入れてしまうと思う。大きなお世話もいいところだ。この文はこの書き方によって言いたいことが十分に言えているのだから。となると私たちは一体日頃何を指摘しているんだろう?もちろんそれで文章がより良くなると信じているから提案するわけだけど、隙間なく意味で囲い込んでかえって不自由にしてしまっているようにも思える。

論理的な文章においては飛躍は欠陥とみなされる。でも飛躍それ自体が持つ意味というものがあり、詩の言葉なんかでは飛躍の運動を利用していることも多い。小島信夫も飛躍について言及している。文章を書く時にはむしろ飛躍を心がけていて、「書いていて、そうでないと文章が死んでしまったように思え、書く喜びが感じられない」とまで言っている。かけ離れた二つの文から、ほかに言い換えることが容易にできない意味が浮かび上がってくる、そういうのが書く喜びだと。

ちなみに同じ本に収録されている「日本文学とユーモア」という文章も良い。大げさに膝を打つとか感銘を受けるとかいうことはないが、何とはなしにじんわりと「これは良いぞ」と思うような文章。このなかで小島信夫はユーモアを「物事を写実的に描くとき、それでは何か人生を裏切っているような気持ちになった作者がそこに一枚かぶせる衣」だと言っている。それは人間を墓場の方から逆に見る態度、つまり「私たちは生きているけれどもやがて死ぬし、やがて死ぬけれども、少くとも現在は生きているという態度」のことだと。こういう文章を読むとドキドキする。「これは良いぞ」と思うわけです。結論は特にありません。

ロストハウス再読

大島弓子の「ロスト ハウス」という漫画が大好きで折にふれて読み返している。白泉社文庫版の奥付によると初出は1994年。同い年だ。

この前久しぶりに読み返してみたらいろいろと思うところがあったので、まとまらないけど書いてみる。

*****

この漫画の主人公はこの世でたったひとつ「他人の散らかった部屋」だけが好きで、ほかに好きなものは一切ないと言ってのける無感動な大学生・実田エリ。友人は一人もいない。

エリが「他人の散らかった部屋」にこだわるのは、幼い頃に住んでいたマンションの隣人、鹿森さんと鹿森さんの部屋を忘れられないからだった。

駆け出しの新聞記者だった鹿森さんは毎朝ドアの鍵も閉めずに飛び出していくような忙しい人で、留守中にエリが部屋に勝手に入って遊ぶことを快く許してくれていた(「うちで遊んでもいいよ だけど服がよごれるよ」)。何もかもきちんと整頓され管理されていたエリの家と違い、ひどく散らかっていて混沌としている鹿森さんの部屋はエリにとっての解放区になった。

鹿森さんが女の人と一緒に暮らすようになってからもそれは変わらなかった。彼女はエリをことさらに可愛がるようなことはしなかったが、エリをその部屋で過ごしたいように過ごさせて、自分がお茶を飲むときはカップを2つ用意する、そんな人だった。エリはそれを飲んでもよく、飲まなくてもよかった。解放区で過ごす日々は、彼女が事故で突然死んでしまうまで続いた。

事故の後、エリたちは家を引っ越すことになり、鹿森さんの行方はわからなくなってしまう。解放区は永遠に失われる。

成長したエリはある時から毎夜大声で叫ばずにいられないようになる。顔に枕を押し当てて声を殺しながら叫ぶことで日々を乗り越え、大学生になる頃には喉が嗄れてハスキーボイスになっていた。エリはなんの趣味も人生の目的もなく、この先も枕で叫び声を殺しながらロボットのように生きていくつもりだった。ただ願わくば小さな解放区さえあれば。

ある日、大学でしつこく声をかけてくる男子学生・樫原から3度目のナンパを受けたエリは「あなたの部屋にだったら行ってもいい」と言って彼のアパートに行く。エリはただ来客のために片付けられていない他人の部屋に入りたかっただけだったが、先方はそのようには捉えず、よくある男女の不幸な行き違いが起こる。エリは樫原を引っ掻き、蹴飛ばして逃げ帰る。

翌日、その一件を許してほしいと言う樫原に対して、エリは「一ヶ月間部屋の鍵をしめないで生活すること、その間自分がいつなんどき部屋に入っていこうとも完璧に無視して過ごすこと」という条件を出す。樫原はそれを愚直に実行し、ついには泥棒に入られて家財道具をすべて盗まれてしまう。

責任を感じたエリは樫原の生活の立て直しのために20万を貸し付ける。その借金の返済日、樫原は何の気なしにバイト先の上司と交わしたという雑談についてエリに話して聞かせる。「昔、上司の同僚に部屋に鍵をかけたことのないと変なやつがいた」「その人は昔恋人に死なれてから結婚も考えず、ついにはホームレスになっているのを見かけたんだって」「その上司はさ、その時ああ彼はついに全世界を自分の部屋にしたのだ、そしてそのドアをあけはなったのだ、と思ったそうだよ」。

それを聞いたエリは鹿森さんを探して街から街へと一晩中歩き続ける。夜が明け、もうそれ以上歩き続けられなくなったときに、エリは世界のドアが自分に向かって開け放たれていたことを知る。

*****

物語はここでおしまい。

「解放区」とは辞書的にいえば革命勢力が現行政権の統治下からもぎ取った区域で、現行の秩序とは異なる秩序が支配する空間を指す。このお話の中での「解放区」は「安全地帯」と同じような意味で使われているようだ。自分の存在が無条件に許され、受け入れられる場所、および受け入れてくれる他者。既存の秩序から切り離されたユートピア

解放区のミソは「他人の」散らかった部屋であるということだ。他人の秩序に従って散らかった部屋。他人の部屋に入るということは、相手との間になにかしら相互的な関わりを持つということで、そこに入る以上は自分だけが「完璧に無視」された透明人間の立場でいることはできない。できないのだが、小さい頃から周囲に「変わった子」と言われ、「普通であれ」という抑圧を感じていたエリには自分を評価する視線の存在しない空間が必要だったんだろう。

でも、それは留守中に他人の家を覗き見る泥棒みたいなもので、やっぱりまともな人間関係とはいえないと思う。自分は他人の領域に侵入して相手に動揺を与えているのに、自分に対しては誰も関心を持ってくれるな、というのは謙虚風の傲慢だ。

本来は人との関係性のなかで作り上げていくはずの安全地帯を一足飛びでほしがったエリの目論見は当然失敗し、考えの違う他人と衝突したり、大きな被害をもたらす結果に終わってしまう。

最初は胎内のような絶対的安全地帯を求めていたエリも、そうして生身の人間として転ぶことで、自分もまた他者と不干渉の存在ではありえないこと、未知の他者の部屋に入れば当然予期せぬぶつかりが発生することがあることを知っていく。他人の部屋に入るには自分の服が汚れることを覚悟しないといけない。

最後にはエリは透明人間ではなく、泥もかぶれば人に泥をかけたりもする存在として、自分の生身の存在を引き受けて世界の中に参加していく。無理に開けさせたドアから勝手に入っていくのではなく、相手からもらった合鍵で正面からドアを開けて訪問するようになり、自分がその人のためにできることを見つけていく。

エリはたぶん、これからは樫原だけでなく他の人の部屋にも入って行って、関わりを持つことができるだろう。最後の1ページ、歩き疲れて夜明けを迎えたエリのモノローグに毎度いたく心を打たれる。

わたしはわたしの前で世界のドアがとつぜん開け放たれていくのを感じていた

この世界のどこでも どろまみれになっても思いきりこの世界で遊んでもいいのだ わたしはわたしに言ってみた

そしてポケットの中の彼の部屋の鍵をにぎりしめて五月の朝の街を走り出した

やっぱり人とは相撲取っていかんといかんということですね。言うは易しだ!

20230504

夜、友達のライブを観に練馬へ。終演後、練馬からなら家まで徒歩で帰れるんじゃないかと思ってとりあえず歩き出してみた。せっかく知らない土地を歩いているのに眼鏡を忘れたので何もかもぼんやりとしか見えなかった。知らない土地といっても練馬だが。眼鏡をかけたところで記憶の中の見慣れたものを探す行為に勤しむばかりでそこにある物をあるがままに見ることはなかなかできないのだが。「学童の裏手に生えていた植物と同じ匂いだ」とかそんなことばかりになってしまう。自分の穴ばかり覗き込みすぎだ。知らない土地で見慣れたものを探すな。

結局ものすごく遠回りして家に着いたのは0時過ぎだった。連休感ゼロ。でも連休だからといってどこか遠くに行くよりも翌日のことを何も気にせずに夜中歩き回りたい。

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これは東西線中野駅に停車しているとき、先頭車両のドア横の壁に光が反射してできる壁の中の車掌室。夢の中のような完璧に静謐な場所を起きながらにして目にすることができる稀なケース。こういうのがあるから駅って好きだ。

20230429

昨日、会社帰りに東京駅の丸善で便箋を買った。手紙なんてもう15年くらい書いていないが、4月で仕事を辞める母になんらかの労いを表したいと思っていて、それで手紙でも書こうかと思い立った。

便箋を買ったら、母だけでなくいろんな人に宛てて手紙を書きたくなった。手紙を書くというのはLINEやメールを送るのとは全然違う行為だ。速さだけの問題ではない。LINEやメールの文章を書くときは基本的にその相手に読まれることしか考えない。手紙を書くときは、半分は相手に向かってボールを投げているが、もう半分は自分に向かって投げている。紙に文字を書いたり消したり止まったりしながら、その間に自分がいま相手に伝えたいこととはなんなのかを考えている。書くことによってはじめて自分はこんなことを考えていたのかとわかることもある。

ただ、文章を書くという行為はそれ自体の性質としてなんらかの帰結に辿り着こうとしてしまいがちなので、注意が必要だとも思う。それまで漠然としていた感想未満の物思いも、文字になった途端に事実然として力を持ちはじめる。そうなると「それらしい着地」に自分自身が騙されていないかどうかが気になってくる。もっとも、どんな帰結であれ自分が辿り着いたそのひとつの帰結を選ぶということが生きるということなんじゃないの?という気もする。

今日はいろんなところを移動しながら手紙を書いた。段落と段落の間で新高円寺から阿佐ヶ谷まで歩き、次の段落と段落の間で友人に会って、彼のお父さんが企画したという阿佐ヶ谷駅前でのフラッシュモブ?(弦楽器隊2、30人で第九の歓喜の歌を1曲演奏して解散、というもの)を見てお茶して別れた。